イランという国 ~ 地理と成り立ちから現代まで


イランという国を簡単にご紹介

イラン(ペルシア語:ایران)の正式な国名は、イラン・イスラム共和国であり、西アジアに位置します。「イラン」という国名を表す言葉は、古代から広く使用されており、1935年から国際的に使用されるようになりました。それ以前の国名は、「ペルシャ」として国際的に知られていました。「ペルシア」と「イラン」はどちらも文化的背景の中で、今日でも使用されていますが、「イラン」は政治的、対外的に現在公式に使われている国名です。イランという言葉は、アーリア人と同義的に使用されており、「アーリア人の国」を意味する言葉でもあります。

イランの国土面積は1,648,195km²で、世界第18位の広さを持ち、人口は7000万人を超えています。北には、アゼルバイジャン、トルクメニスタンが接しており、北部はカスピ海沿岸地域となり、カザフスタンとロシアともカスピ海をまたいで近隣諸国という位置になります。東は、アフガニスタンとパキスタン、南はペルシャ湾とオマーン湾、西はイラク、北西には、トルコと国境を接しています。

イランは、石油や天然ガスの埋蔵量が大きいため、国際的なエネルギー安全保障と世界経済において重要な地位を占めています。また、現在のイランには、世界で最も古い主要文明の一つがこの地で起こり、紀元前7000年にまでさかのぼる歴史と、その遺跡が残されています。

 

 


古代イラン高原の南西部ではメソポタミア地方の文化的な影響を受け、やがて紀元前2800年頃に、エラムと呼ばれるイラン最初の国が形成されました。

紀元前2,000年の末には、遊牧民であったアーリア人がイラン高原にやってきました。アーリア人の中の、インド・イラン人と呼ばれるようになった人々が、イラン、インド地方へと移動してきたわけです。彼らは、イランの歴史の根幹部を形成することになります。そして、アーリア人の中のペルシア人とメディア人が、その後のイランの歴史の中に登場してくることとなります。 

メディア人は、紀元前600年頃に勢力を強め、イランの北西部を中心にメディア王国を作りあげます。メディア王国は、アッシリアを滅ぼし、エジプトやバビロニアと並ぶ巨大一大強国となりますが、やがては新しく興ったペルシア人の王朝に同化してゆきました。

紀元前6世紀にファールス地方から起こったのが、このペルシア人の国(アケメネス朝ペルシア)です。ファールス地方は、ペルシア語で、パルスア、ファールス(パールス)と呼ばれ、これが古代のギリシアの言葉でペルシスと呼ばれたことから、現在の「ペルシア」の言葉はここに由来するとされています。

一方、イラン高原にやって来たアーリア人達は、自分達のことを「アーリア」という言葉で長く表しており、アーリア人の土地という意味合いで「アールーヤン」という言葉も使用していました。その言葉がササン朝ペルシアの頃の公用語で「エーラーン」と言われるようになり、イスラムの時代になるとこれが「イーラーン」となりました。これが、「イラン」と「ペルシア」という2つの言葉が併用されることとなる所以です。

 アケメネス朝からはじまったペルシア帝国は、その後7世紀にイスラム(アラブ人)の侵入を受けるまで続き、大帝国を作り上げます。しかし、イスラムの侵入後は、ペルシアの文化はイスラム文化に吸い込まれていくこととなり、ペルシア文化の暗黒の時代へと入ってゆくこととなります。

そして、11世紀には、トルコ系民族、13世紀にはモンゴル系民族の侵入を受けることとなります。

混乱していたイランを統一したのが、シャー・イスマイールで16世紀にイスラム教(シーア派)を国教として、サファビー朝を打ち立てます。最盛期は、シャー・アッバース1世の時代で、首都はイスファハン。現在のイラン人とイランの国の宗教的基礎がここから始まることとなります。

18世紀アフガン人により再び滅ぼされてしまいますが、18世紀、カジャールによりイランは再統一されます。

20世紀に入り、立憲革命で、カジャール朝は倒れますが、1925年、レザー・シャーが即位しイラン最後の王朝・パフラビー朝が成立します。これによりイランの西洋化、近代化が急速に推し進められ、1970年代のイランはオイルマネーに沸きます。しかし、人々の経済的格差など社会的に様々な矛盾を生み、人々の不満がつのり、1979年、指導者ホメイニ師によるイラン革命が勃発。パフラビー朝は滅び、イスラム勢力が完全にイラン国内で主導権を握るようになり、強い反米政策と独自のイスラム政体を築いた、現在のイラン・イスラム共和国の誕生となりました。